تسجيل الدخول日曜日の午後。
私は駅前の時計台の下で、スマホを握りしめていた。
約束の時間まで、あと五分。
場所は駅前のカフェ。
車なし。
ホテルなし。
個室なし。
服の手配なし。
ご家族なし。
焼き菓子五袋なし。
条件は全部確認した。
翌朝、私は社内報告用の資料を開いた。 結和ケア試験導入・初期反応報告。 そう打ったタイトルの下に、昨日の宮坂さんから聞いた内容を整理していく。 配食スタッフが気づきを残した。 訪問支援スタッフが事前に確認できた。 家族への連絡が一度で済んだ。 電話が一つ減った。 そこまで打って、指が止まる。 一つ。 数字だけ見れば、とても小さい。 けれど、その一つが現場では大事なのだと、宮坂さんは説明してくれた。 誰に伝えるべきか迷う時間が減った。 記録しても無駄ではないと思えた。 次も残してみようと思える入口になった。 私はその言葉を、できるだけ削らずに残すことにした。 報告書は短くするべきだ。 でも、短くしすぎて意味まで消してはいけない。 午前十時。 事業推進室の小さな会議室で、試験導入の初期報告が始まった。 出席者は、担当部門の上司と事業推進室の数名。 玲央さんはいない。 それでよかった。 ここで評価されるなら、玲央さんの前ではなく、この仕事を見ている人たちの前で評価されたい。「では、朝比奈さん。お願いします」「はい」 私は資料を開いた。「試験導入開始から一週間の初期反応について報告します。まず、現場向け確認カードは全員に定着している段階ではありません。連絡先の明記、職種別の記録例、家族連絡の確認欄について、改善要望が出ています」 最初に課題を出す。 良く見せるために、都合のいいところだけ並べたくなかった。「一方で、実際に連携が一件動いたケースがありました」 会議室の空気が少し変わる。 私は続けた。「配食スタッフが、利用者さんの受け答えが普段より曖昧だったことを記録しました。緊急対応ではありませんでしたが、訪問支援スタッフが訪問前にその記録を確認し、地域連携室へ状況
試験導入が始まって、一週間が過ぎた。 現場からの声は、まだ途切れない。 三行目の連絡先がまだ分かりにくい。 配食と訪問支援で、記録例を分けてほしい。 家族へ連絡済みかどうかを一目で見たい。 厳しい指摘もある。 けれど、最初の頃とは少し違っていた。 ただの拒否ではなく、使うための意見になっている。 そう思いたい。 そう思いながらも、私は毎日少しずつ不安だった。 本当に役に立っているのだろうか。 現場の手間を増やしているだけではないのだろうか。 そんなことを考えていた午後、宮坂さんから連絡が入った。『少しお時間ありますか。共有したいケースがあります』 私はすぐにオンライン打ち合わせを設定した。 画面に映った宮坂さんは、いつも通り落ち着いていた。 けれど、表情が少しだけ柔らかい。「朝比奈さん、昨日、一件だけですが、実際に助かったケースがありました」「助かった、ですか」「はい。配食のスタッフが、ある利用者さんのところで“いつもより受け答えが曖昧だった”と記録してくれたんです。食事は受け取られたので、緊急対応というほどではありませんでした。ただ、三行カードの通りに、対応したことを一つだけ残してくれました」 私は息を詰めた。 画面の向こうで、宮坂さんは資料を確認しながら続ける。「以前なら、配食側は気になっても、どこまで連絡するべきか迷ったと思います。急ぎではない。でも、何となくいつもと違う。そういう時は、結局その人の判断に任されがちでした」「はい」「今回は、その記録を訪問支援のスタッフが先に見られました。訪問前に地域連携室へ一度確認して、前回の様子と照らし合わせてから入れたんです」「それで、何か問題が?」「大きな問題ではありませんでした。少し体調が悪かったようですが、ご家族への連絡も、訪問支援側から一度に整理してできました」
試験導入が始まって、三日目。 私は朝から、結和ケアとの共有フォルダを何度も開いていた。 現場向け確認カード。 初回説明用資料。 家族向け説明文。 どれもまだ試験版だ。 完成ではない。 むしろ、ここから崩されるために出したものだと思っている。 そう思っていた。 思っていたけれど。『三行目の「地域連携室へつなぐ」が、具体的に誰へ連絡すればいいのか分かりにくいです』『配食スタッフの場合、対応したことを一つだけ残すと言われても、どこまでが対応に入るのか迷います』『家族へ連絡済みかどうかを確認できる欄がほしいです』『カードは見やすいですが、訪問支援と配食で同じ文言だと少し合わない気がします』 届いた意見を読んで、私は机に額をつけたくなった。 文句が出るとは聞いていた。 でも、実際に並ぶとなかなかの迫力がある。「琴葉、生きてる?」 朱音が隣から声をかけてきた。「文句に埋まってる」「仕事してるね」「もう少し優しい言い方をして」「改善材料に包まれてる」「包まれ方が重い」 私は顔を上げ、もう一度意見の一覧を見た。 きつい。 けれど、読んでいるうちに少しずつ分かってくる。 これは、ただ否定されているわけではない。 見たから出た文句だ。 使おうとしたから、引っかかった場所だ。 読まれていなければ、何も返ってこない。◇◇◇◇ 昼前、宮坂さんとの短いオンライン打ち合わせが入った。 画面越しの宮坂さんは、いつもの落ち着いた表情だった。「朝比奈さん、意見がいくつか出ていますね」「はい。かなり出ています」「いいことです」「いいこと、ですか」「はい」 宮坂さんは、少しだけ笑った。
結和ケアの現場向け説明会は、夕方に行われた。 訪問支援のスタッフが戻ってくる時間に合わせたため、会議室には少し疲れた空気が漂っている。 それでも、席はほとんど埋まっていた。 高梨さんが前方に座り、宮坂さんは少し後ろで全体を見ている。 私は配布用の資料を手に、深く息を吸った。 今日持ってきたのは、三種類。 初回説明用の一枚資料。 家族向けの説明文案。 そして、三行の確認カード。 前なら全部を一つにまとめていたと思う。 でも今は違う。 読む人が違えば、届く形も違う。「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。鷹宮グループの朝比奈です」 私が頭を下げると、何人かが軽く会釈を返してくれた。 好意的な人もいる。 警戒している人もいる。 当然だと思った。 新しい仕組みは、現場にとっていつも歓迎されるものではない。「最初に、皆さんからいただいた言葉を一つ、そのまま使わせてください」 私は資料の一番上を示した。「利用者さんを見る時間が減るなら、本末転倒です」 会議室の空気が、ほんの少しだけ変わった。 誰かが小さく頷いた。 高梨さんも、こちらを見ている。「この仕組みは記録を増やすためのものではありません。皆さんが気づいたことを、次に必要な人へつなぎやすくするためのものです。だから、試験導入では三つのことを先に約束したいと思っています」 私は指で一つずつ示した。「既存記録と同じ内容を、別の場所へ二重に書いていただく形にはしません。転記を前提にしません。迷った時の確認先を一本化します」 前列の男性スタッフが手を上げた。「でも結局、何かは書くんですよね」「はい」 私は頷いた。「ゼロにはできません。ただ、毎回全部を書く形にはしません。いつもと違うことがあった時だけ、対応したことを一つ残してくだ
会社へ戻ると、私はすぐに新しいファイルを開いた。 現場向け確認カード。 タイトルを打ち込んでから、指が止まる。 三行。 高梨さんは、そう言った。 現場で本当に見るのは、たぶん三行です、と。 資料を短くするだけなら、まだできる。 けれど三行にするとなると、話が違う。 説明を削るどころではない。 何を残すかを決めなければならない。 私は画面を見つめたまま、結和ケアで聞いた言葉を思い出した。 利用者さんを見る時間が減るなら、本末転倒です。 その一文を、カードの上に置くか迷った。 大事な言葉だ。 でも、それだけで一行を使ってしまう。 現場が本当に見る三行に、理念を入れていいのか。 それとも、別の場所に置くべきなのか。 悩んだ末、私はカードの上部に小さく見出しとして入れることにした。『利用者さんを見る時間を守るために』 そして、三行を打つ。 一、いつもと違うことに気づいたら記録する。 二、対応したことを一つだけ残す。 三、迷ったら宮坂さんへつなぐ。 短い。 短すぎる気がする。 でも、訪問前後の慌ただしい時間に見るなら、これくらいでなければ目に入らないのかもしれない。「琴葉、何してるの?」 隣から朱音が覗き込んだ。「三行にしてる」「何を?」「仕事を」「俳句?」「確認カード」 朱音は画面を見て、眉を上げた。「短っ」「三行だから」「本当に三行だ」「三行って言われたから」「素直」「素直というより、これ以上あると見てもらえないんだって」 朱音は少し黙ってから、画面に目を戻した。「でも、分かりやすいよ。何をすればいいかは分かる」
修正した資料を結和ケアへ送ってから、二日後。 宮坂さんから連絡が入った。『現場の反応が出ました。良いものも、厳しいものもあります』 その一文を見た瞬間、背筋が伸びた。 良いものも。 厳しいものも。 どちらか片方ではないことに、少しだけ救われる。 けれど、次の打ち合わせで共有された内容は、思っていたよりも正直だった。「まず、現場向けの一枚資料については、前よりずっと読みやすいという声がありました」 宮坂さんが言った。 私は小さく息を吐く。「ありがとうございます」「ただし」 来た。 私はペンを握り直した。「これでもまだ、訪問前には読まないと思う、という意見もありました」「……はい」 予想していた。 でも、実際に聞くとやはり少し痛い。 高梨さんが補足する。「読めないというより、読むタイミングがないんです。朝は予定確認で埋まっていますし、訪問後は次の移動があります。資料を読むなら、訪問前後ではなく、最初の説明会で頭に入れる形の方が現実的です」「では、現場向け一枚資料は、日々確認するものではなく、初回説明用に近いですね」「はい。毎回見るものは、もっと短くないと無理です」「もっと短く」 私は思わず復唱した。 高梨さんは、少し申し訳なさそうに笑う。「すみません。でも、現場で本当に見るのは、たぶん三行です」「三行」「何を見たらいいか。どこに記録するか。迷ったら誰に聞くか」 私は手元の資料を見下ろした。 削ったつもりだった。 かなり削ったつもりだった。 それでも、まだ多い。 けれど不思議と、前ほど落ち込まなかった。 具体的に言われたからだ。 三行。 それなら直せる。「分かりました。現場向けの確認







